二重課題(dual task)
リチャード・ファインマンは1965年に朝永振一郎やジュリアン・シュウィンガーとノーベル物理学賞を受賞した世界的に有名な物理学者です。「ご冗談でしょう、ファインマンさん」をはじめとした軽妙洒脱な科学エッセイの書き手として、その名前をご存知の方も多いかもしれません。
ファインマンのエッセイを読んでいると、学生時代には物理学のみならず、生物学や心理学など、幅広い分野に強い興味を持っていたことが伺われます。実際に生物学の学生に混じって研究に参加するなど、その興味には実践がともなっていました。
『困りますファインマンさん』に所収の「ワン・ツー・スリー、ワン・ツー・スリー」という題名のエッセイは、心理学に関するお話だといえるでしょう。
話は彼が12歳のころ、友人との会話を通じて、ヒトの思考には「言語的な思考」と「視覚的な思考」の2種類があることに気付かされることから始まります。長じて大学生となったファインマンは、「数を“頭のなか”で一定速度でカウントする」ことの背後にあるメカニズムに興味を持つようになります。
頭のなかで1から60までをカウントするのにファインマン自身は約48秒かかること、その数値はかなり安定しており、文章を読みながらでもあまり影響を受けないことなどをつきとめます。
しかし、しゃべりながら頭のなかで時間を数えることはとうとうできませんでした。
そこでファインマンはその事実を大学の仲間たちに打ち明けます。するとその中のひとりがファインマンに異を唱えたのです。しゃべりながら数を頭のなかで一定速度でカウントすることはできる、けれども文章を読みながら数を数えることなど不可能だと。
そこでふたりは即席の実験を行います。
ファインマンは本を読みながら口に出さずに数字を一定速度でカウントし、しかも本の内容もきちんと覚えていられることを示します。
一方、その仲間はしゃべり続けながら、ちゃんと頭のなかで数字を一定速度で数えられることを示したのです。
つまり、ふたりはお互いにとって不可能な技をそれぞれ遂行できたのでした。
なぜ、ふたりの間でこのような違いが生じたのでしょうか?
それは、ファインマンは数字を頭のなかで「声に出して」カウントしていたのに対し、仲間は頭のなかで「数字の書かれたテープが動いているのを見て」カウントしていたからなのです。ファインマンは「言語的に」思考し、仲間は「視覚的に」試行していた、というわけです。
ファインマンは、ヒトがどのように思考しているかを主観報告によってたずねることなく、このような課題をうまく工夫することで、明らかにできると考えました。
ファインマンが用いたのは、心理学では「二重課題(dual task)」と呼ばれる方法です。複数の課題を行わせることで、片方の課題に割ける認知的なリソース(資源)の量が変わってきます。ふたつの課題がリソースを奪い合う関係にあるのであれば、それぞれの課題の正答率は下がったり、反応時間が長くなるなどの結果が生じます。ファインマンが調べたのは、まさにこの点だったのです。
ヒトが数を数えるときに「何を」考えているか(思い描いているのか)は、この方法ではわからないかもしれませんが、数を数えるときに「どう」考えているのかはある程度推察できるわけです。
ファインマンはこの逸話がお気に入りで、心理学の論文にしようと思ったこともあったそうです。
なお、わたし自身がとある場所で調べてみた結果によると 、実際に何割かの人は「声に出して数字をカウントする」以外の方法をとっているようです。
音楽の素養のある人の何人かはメトロノームのテンポ60のリズムを利用したと答えてくださいました。これは「聴覚的」思考なのかもしれません。
またストップウォッチを思い浮かべて数字をカウントした、という人もいました。これは「視覚的」思考ですね。
心理学の研究やファインマンの実験は、ヒトの思考に迫る方法が脳機能計測に限らないことを私たちに教えてくれています。
参考文献: