ゲームと合理性:人間は合理的でない?(1)
最終提案ゲーム(ultimatum game)を生身の人間に行わせると、提案者はあまりに不公平な提案はせず、応答者はあまりに不公平な提案がされると金銭報酬がもらえなくなるのを承知でそれを拒絶します。
この結果をもって「ゲーム理論の予測する合理的な利得最大化者(rational maximizer)のようには人は行動しない」だとか、もっと端的に「ゲーム理論の予測は間違っている」と主張する人がいます。場合によってはアカデミックな論文の中にそのような記述が見受けられることもしばしばあります。
しかし、これらの記述こそがある種の勘違い、あるいは間違いであると私は考えています。
今回はこの話題について述べたいと思います。
ゲーム理論(や経済学)で考える利得(効用)は、金銭的な報酬に限りません。
じゃんけんで勝ってうれしい、テニスの試合で勝ってうれしい、ごはんを食べておいしい、というのは、必ずしも金銭的な報酬ではないことは明らかです。
それは、何らかの意味で主体(※)の「うれしさ」や「満足度」のようなものを指すのです。
「人は金銭報酬のみを考えて行動するわけではない」と、誰かが主張したとしたら、ゲーム理論家や経済学者も大いにうなずき同意することでしょう。
さらに、ゲーム理論(や経済学)では、主体の好み(選好、preference)は人それぞれであると考えます。
(最終提案ゲームなどで)金銭を重視する人もいれば、不公平感を重視する人もいるでしょう。
寿司が好きな人もいれば、嫌いな人もいるでしょう。
つまり、それぞれに選好の構造を持っているというわけです。
(この項、つづきます 。)
※注 上で「主体」という抽象的な用語を使ったのは、ゲーム理論や経済学での主体は生身の人間に限らないからです。国家や組織、プログラム・・・なども主体になりえます