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脳 Brain, No Life(仮)

とあるニューロベンチャー企業の研究員のつぶやきを記録するブログ

すこし長めのひとりごと(3)

 

もちろん、N=1の研究がまったくなくなったわけではありません。

たとえば2006年、Neurocaseに発表された論文は、AJ(研究報告上の仮名で、後に本名が明らかにされた)という人物の極めて優れたエピソード記憶について報告をしています。HMなどもそうですが、ある種の損傷研究や、特殊能力をもったヒトの事例ではN=1になることもあるわけですね。

 

ラマチャンドランが著書の中で、「人間の言葉をしゃべる豚が1匹いたときに、同様の豚をあと何十匹か見ないと、豚が人間の言葉をしゃべることを信じないなんてことを言うヒトはいない」という趣旨のことを述べています。

(このパラグラフは、僕の(極めてあいまいな)記憶にもとづくので正しい記述ではありません。あしからず。後でちゃんとした文章をみつけたら、修正or追記をします)

 

これは損傷研究などに代表される事例研究の意義について述べた文章なのですが、「無知の部分」を減らしていくことで、ふつうの参加者についても適用されるようになるでしょう。(ちなみに「無知の部分」とは、いろいろな可能性があります。遺伝子かもしれませんし、性格かもしれませんし、出身地かもしれませんし、直前の食事内容かもしれませんし、前日の睡眠時間かもしれませんし、兄弟姉妹の数かもしれませんし、・・・、実験室の壁の色かもしれないわけです。ふつうは扱い切れないので、モデルに誤差項を入れて扱うわけですね。)

心理学、脳科学、医学などでもそうですが、最終的にはN=1について言えることが重要になってくると私は思います。「この検査の結果、10年以内にあなたがガンになる確率は63%です」と言われたときに、個人としてはガンになるか、ガンにならないかのいずれかなのですから、統計的に言えることとある個人にとっての情報の間にはある種の乖離が出てきます。

 

大人数についてしか言えないこと、大人数のデータにもとづいて言えること、そして個人についても言えることの間の関係性をもっと考えていきたいと思います。

 

 

参考文献:

Parker, E. S., Cahill, L., & McGaugh, J. L. (2006). A case of unusual autobiographical remembering. Neurocase, 12(1), 35-49.