宝くじを買うヒトは不合理?(5):リスクに対する態度と効用関数の形状
(前回のエントリーからの続きです)
どうでしょうか?
みなさんは、どうお考えになりましたでしょうか?
実は、期待効用理論の立場からは、上記に挙げたいずれの人たちも、それぞれに「合理的」でありうるのです。
宝くじを買わないヒトは、「リスク回避的」な性向を持っており、
買っても買わなくてもいいというヒトは「リスク中立的」な性向を持っており、
宝くじを買うヒトは、「リスク愛好的」な性向を持っていると解釈されます。
どれかひとつだけが合理的ということはなく、リスクに対する態度が異なるだけで、「いずれも合理的である」、と解釈されます。
「リスク回避的」なヒトの効用関数は、√のような形状(凹関数)をしていて、
「リスク中立的」なヒトの効用関数は、1次関数のような形状をしていて、
「リスク愛好的」なヒトの効用関数は、2次関数のような形状(凸関数)をしていると考えると、これらの個人の選択の理由を整合的に理解することが可能です。
リスク回避的なヒトは、確実な100円のもたらす効用の方が、このくじの期待効用よりも大きくなるので、このくじを購入しません。
リスク中立的なヒトは、どちらも同じ期待効用をもたらすので、買っても買わなくてもよいと考えます。
リスク愛好的なヒトは、確実な100円の効用より、くじのもたらす期待効用の方が大きいので、このくじを購入します。
意思決定や選択行動にある種の一貫性があることが選好の「合理性」であり、宝くじを買う人もそうでない人も、それぞれに「合理的」であると捉えるのが「期待効用理論」の考え方です。
一方、「宝くじを買う人は非合理的で、宝くじを買わない人は合理的である」と考えている人は、(宝くじの値段が宝くじの期待賞金額より大きい場合には)知らず知らずのうちに期待値原理を適用して判断を下しているか、もしくは、リスク回避的なヒトをリスク愛好的なヒトやリスク中立的なヒトより(何らかの理由によって)合理的なヒトである、と判断してしまっているのだと考えられます。
その「何らかの理由」が学術的に探求可能な形式で明示的に記述できれば、意思決定論における新たな課題になりえる…のかもしれませんが、巷で見かける「宝くじを買う人は合理的でない」のたぐいの話は、そこまで考えて出てきたものではなさそうだ、というのが私の印象です。
経済学者やゲーム理論家は、合理性には様々な形があると考えるわけですが、一方で、「期待値原理にしたがって行動することが合理性の判断基準になりうる」、「リスク回避的なヒトこそ合理的である」と(本人も自分自身がそういう価値判断にもとづいて判断を下しているということに気づかずに)断定している人も多いのではないかと思った次第です。
さらに話を進めると、期待効用原理からも説明のつかない選択行動が知られているのですが、それはまたいずれ機会があれば取り上げたいと思います。